織田信孝「昔より 主を討つ身の野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」

昔より 主(あるじ)を討つ身(内海)の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前(秀吉のこと)
天正11年(1583)5月、織田信長の三男信孝は尾張国知多郡野間の大御堂寺(愛知県美浜町)で切腹して果てた。わずか26歳だった。
冒頭の歌は、平安時代末、同所で源義朝が家来長田忠致に暗殺されたが、源頼朝が父の敵を討った故事を引いたもので、主筋の自分を家来である秀吉が討とうとしているが、
同様に必ずや報いをうけるであろうと、激しい呪いを込めた信孝の時世の句である。
安養院には、信孝が切腹した時に投げつけた腸が当たってついた血痕の残る掛け軸や、切腹したときに使用した短刀が伝存していると聞く。
天正10年5月、信孝は信長から四国平定後に讃岐国主とすることを言い渡された。
大いに勇んで念願の国主となるべく渡海のため大坂に軍隊を結集した信孝であったが、出陣直前の6月2日未明に本能寺の変が勃発してしまう。
弔い合戦を挑むには、もっともよい位置にいたにもかかわらず、パニックに陥った家臣団が総崩れとなってしまい身動きがとれなかった。
明智光秀と対戦した山崎の戦いには、秀吉に総大将として祭り上げられたが、戦後の清須会議の結果、信忠の遺領美濃を得たものの、
信長の後継者を約束された三法師(信忠子息、後の秀信)の後見人に留まった。
信孝が天下人をめざしたのは、この時のことである。
親しかった柴田勝家との絆を深めるため、お市の方の再嫁を斡旋したという。
そして三法師を抱えて放さず、印文「一剣平天下(いっけんてんかをやすんず)」の印章を使用するようになる。信長の「天下布武」印を意識したものである。
しかし天正10年12月、事態を憂慮した秀吉によって岐阜城を包囲され降伏し、三法師を取り上げられたうえ、生母や娘までも人質として奪われてしまう。
翌年4月、賤ケ岳の戦いが勃発し信孝も挙兵するが、頼みの綱の柴田勝家や滝川一益はあっけなく敗退した。
人質となった生母や娘は、秀吉によって無残にも即座に処刑されてしまい、自らはライバル信雄の勧告を受け岐阜城を明け渡して知多半島をめざしたのだった
続きはソースで
https://news.yahoo.co.jp/articles/70fe8bc6e0cbe35e75c196e2e9159df93c9450dd
>1
>信孝が切腹した時に投げつけた腸が当たってついた血痕の残る掛け軸
激烈すぎるだろ
>>14
ちなみに柴田勝家も北ノ庄陥落の際
秀吉軍に向かって臓物ぶん投げたらしいから
ムーブメントだったんじゃね?
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Source: 来たなー!またー!
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